「必要なら、自分でやるって。興味を持ってから、図書館でもなんでも行って調べる。その方が頭に入る」
「歌やりたいエレキ少年に、オレは何のアドバイスもない。ほんとに歌いたい時には、自分でわかる。情感を出すためにはどうしたらいいか。ん、ナオン口説きたい時の目で、自然に・・・そういうことが、自然にできてくる。」
矢沢永吉『成り上がり』、1978
「このように自分で考えた子供が、あるとき図書館でその関連の本を見つけると、もしかして自分が考えたものの答があるのではないか、とわくわくしてそれを読むだろう。何も考えていない子供に対して、大人が『この本を読みなさい』と与えた場合と、理解度が違ってくるのは歴然としている。好奇心は、このように自分の頭で考えるほど大きくなるのだ。
(中略)人間は、なにもすることがなければ考える生き物である。ようするに、なにも与えなければ、自分の頭の中で自分が欲しいものを作るようになる」
森博嗣『集中力はいらない』、2018
ふっと、
昔あんな言葉があったなあ、
自分の子育て(自分だけでやったわけではありませんが!)で影響を受けたなあ、
あの本はどこにあるっけ?
と思い、本棚を漁って引っ張り出してきた言葉たち(↑)。
上の子が生まれたばかりの頃、
誰かにも
「あまり親が先回りして、あげたり教えたりしちゃダメだよ」
と言われた気がします。
要は、「あまり与えない」「不親切」がポリシー(?)の、
雑な父親だったと言えます(汗)。
塾の講師としてはどうか?
さすがに
「放っておく」というわけにはいきませんが、
やはり、あまり手取り足取り
便宜をはかったり教えたりしてあげるのは、
好きじゃない気がします。
そんなことしても身につかないですもん。
ちったー考えろ。
説明してみろ。
丁寧にやれ。
調べろ!
わかんなかったら聞きに来りゃいいじゃん?
そういう言葉を日々投げかける毎日。
自分が何になるか、
将来何を軸にして生きるか、
そんな大きなことは、私ごときの介入するところではありません。
(そういうことのできる
人間的スケールの大きな先生/親は、
本当にリスペクトしますが。)
ここは塾だから、
「勉強」を利用して
自分の力で自分で頑張る練習をしてもらいたい、
と思うのです。
そういえば、
私が若いころ影響を受けた言葉には、
こんな言葉(↓)もあったなあ。
「私が考える教育とは、多少なりとも悪い情況を与えて、それを乗り越えて行く能力をつけさせることですが、今は良い状況を与えるのが教育とされています。」
曽野綾子『人間の基本』、2012
Comments