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「教育」に「罰」はあっていいか。

『教育』という言葉は、そもそもの意味が、

「上の世代が、下の世代を、何かに育てるために、ある内容を教え込むこと」

ということであると思います。

これは自発的な『学び』と区別した言い方です。

やるなと言われてものめりこんでどんどん学んでいくようなのが『学び』。

似て異なるものです。

どちらが素敵なものかといえば『学び』に決まっています。

片や『教育』は、本人の自発性とは関係なく、上の世代が

「われわれの社会を受け継いでもらうために、これこれのものは必ず身につけてほしい」

と考え、ときに強制しながら教え込む、そういうものであると思います。

『教』の字にはムチが入っている、といいますよね。

学校教育以外の場合で『教育』という言葉を使うときに、その意味はわかりやすいと思います。

社員教育、軍隊教育、看護教育、帝王教育、安全運転教育・・・

軍隊の中で必要なことを、「自主性にもとづきのびのび学ぶ」なんてわけにはいかないじゃないですか。


そのように、『教育』という言葉にあまりロマンを抱いていない私からすると、

教わる方が満足にやらず、何かが身につかないのは困るので、ときには罰も妥当(そもそもやるつもりがないのなら退場して結構)」

という考え方になります。


現実には中学生諸君に「罰」を与えることなんて、ほとんどないですよ?

でも、「毎日英作文」、これ結構サボる(忘れちゃうのかもしれませんが)子が多かったんですよね。

悪いけど、サボりがちな子には「お仕置き」を与えることにしました。

本当にささやかなものだし(それでもそれなりにインパクトのあるものです)、警告を与えたというのに「やっちゃった」、そんな事態に対しての最終的な「罰」ですけど。

その結果やっときっちり毎日課題を出すようになった、そんな子もいます。


しょうがないねー。でも、とにかくそこは改まってほしい。そこは譲れない。

世の中、だらしのない人は見捨てられたり評価されなかったりすることも事実。

毎日勉強を少しずつコツコツ続けてもらわないのはこっちだって困るし、

ひいてはキミたちも困るんじゃないかなー、と思うから。


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