英語以外の外国語を、一応、2つ、勉強したことがあります。
大学の「二外」「三外」というやつです。
フランス語とアラビア語。
全然モノにはなりませんでしたが・・・
そのときは、
特にアラビア語のほうは、一応一生懸命やりました。
まず文字が読めなくては、
文字通り話になりません。
特にアラビア語は、
まったくの未知の文字。
フランス語とて、
ABCの読み方は、英語やわれわれの「ローマ字」とはずいぶん違います。
まあ、でもそれは割とすぐ慣れます。
そのあとにどかんと高く分厚く立ちはだかる(&ずっとつきまとう)のは
「動詞」
の壁。
現在形、過去形、未来形、その他の独特の時制。
人称による多彩な活用。
〇〇型動詞とか、そういう不規則動詞の多さ!
(現在・過去・未来)×(人称)×(動詞の型)×エトセトラ!!
そういう、動詞の活用が自由自在にできないと、
これまたやはり、お話になりません。
単語とか二の次です。
それ(動詞の活用)を必死で覚える。
ルール(規則)をなんとかして覚える。
書いたり口に出したりして練習する。
己に叩き込む。
そこに、
「楽しく慣れよう!」
「さあ、会話してみよう!」
とかいう要素は皆無でした。
でも・・・
僕らが外国語を学ぶ方法って、実はそれしかないんじゃないだろうか?
24時間365日、その言語しか周りで話されていないから
(現地の学校に通っているとか、職場がみな英語だとか)
体当たりで学ばざるを得ない、
という場合を除いて。
僕が学んだ上智大学の中で、
外国語学部は勉強が厳しいことで知られ、
(僕は文学部です💦)
とくにイスパニア語学科(イスパニア語=スペイン語)やロシア語学科は
「鬼のイスパ、地獄のロシア」
なんて言われていました。
でも、そうやって、
「純ジャパ」の学生が
ゼロからスペイン語やロシア語をモノにしていったはずです。
なぜ、英語に限っては、
「文法ばっかりやっていたら、テストで役に立つかもしれないけど実地には役に立たないよ」
(→きっと外大や外国語学部でそんなことは言わないはずです。文法もしっかりしてないのに実地で役に立つはずがないだろう、と一笑に付されるでしょう)
「楽しくゲームしたり会話したりすればいい」
(→悪いとは全然思いませんが、勉強として力がつくかどうかです。)
「文法にこだわらずに大量の良質な文章にふれよう!」
(→無理だっつーの)
といった類の方法論が信じられてしまうのでしょうか?
世界の言語の中でも英語はなんか特別だから?
中学生はまだおこちゃまで、ガンガン勉強させるのはかわいそうだから?
世にあふれるキラキラした言説。
僕もまだ間違っているかもしれません。
しっかり本質を見極めていかないとね。
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