最近、古い本ですが、関山和之という人の書いた『説教の歴史』という本(岩波新書、1978年)を読みました。
かつて日本の僧侶が民衆を集めて行った「説教」は、難解な教理をうんとやさしく民衆の肌感覚に近づけて説くだけでなく、発声法とかリズムとか盛り上げ方とか構成とかがうんと考えられ、練られていて、その技術を修行によって伝えてさえいたそうです。
昔の民衆にとっては、そのような説教集会は一種の娯楽に近かったそうで、それを聴きながら笑ったり泣いたり感動したりみんなで念仏や和讃を唱えて盛り上がったり(?)して「ああ、いいお話聴いたな」と満足して家路に就いたそうです。
そのような説教の形は、太平洋戦争直後まで残っていたそうで、落語や講談、浄瑠璃などの日本の多くの芸能のルーツにもなっているそうです。
学校や塾で習う英語や数学、これはどうしても無味乾燥になってしまいがちなもの。
確かにどれも大事なもの、意義あるものばかりです。
「国際化が進む現在にあって、英語の技能はうんたらかんたら・・・」
「数学的思考はなんたらかんたら・・・」
あるいは、
「世の中結局学歴だ。学んだ中身というか、ちゃんと勉強を続けてきたという証明が、人に評価されるんだ」
といって勉強に子どもを駆り立てる人もいるでしょう。
しかし、子どもたちからすれば、「そんなこと言っても分からん!」てなものでしょう。
そんな高邁な理念や大人の事情は、生活からかけ離れた代物であるわけで。
難解なものを、難解なままぶっつけられたら、いくらそれが「VUCAの時代を生きるために必要なんだっ」と言われても、やる気をなくすだけですよね。
私たちは、本当に基本の、「これだけはできるようになってね」というのができるようになるところまで持ってこれれば御の字。
後は各自で道を見つけて伸びていけばいいはず。
その入り口まで来るのが難しい。
みんなそれぞれに忙しい。
朝からずっと学校で授業を受けて、部活もやってから夜塾に来てくれる子たちのためにも、やっぱ授業は楽しくなきゃな、とびっきり楽しくしなきゃな、と最近思います。
まだまだ全然ですが・・・。
Commentaires